2007年7月

第16回
なにもない豊かさ


「おはよう、朝早いのに来てくれてありがとう」「朝ご飯は食べてきたかな?」

初夏の日差しが差し込む中、まぶしそうな瞳でかわいらしい笑顔がやってきた。「子育てクーポン券」を使った遠足に行くのだ。

「みんな集まった?では出発です!」

ぐーん。動き出した大型バスの窓の外を、木が、街が、風が流れ出す。普段より高い位置から、大きな一枚ガラスを通して見えるそれらは、いつもよりずっとスケールが大きい。まるで鳥かトンボになったよう。

ふと後ろの座席に目をやる。目をまん丸くして、やはり車窓を見つめる子。スタッフの楽しいおしゃべりに聞き入る子。大きなバスが嬉しいのか、おしりでぽんぽん跳びはねる子。そしてその横で我が子を見守る、こちらまでほっこり心が温まるお母さんのまなざし。

私はこんな「『なんにもない』から生まれる豊かさ」が好きだ。「もの」の洪水からぽんと解き放たれた瞬間、突然ゆっくり刻み始めるこの時間が。

「子どものものは少なくていい」

そうは思っていても、じいちゃんと出かければ大きな車を抱えてくるし、ばあちゃんは頼まない人形なんぞ送ってくる。かくして箱からはおもちゃが、小さな心には物欲が溢れ出す。ものや情報が多い今、子どもに「何を与えるか」「何をあげたら喜ぶか」、誰でもそんなことに心を砕く。

でも待てよ。

子どもの頃を思い返してみると、そこに登場するのは「もの」ではない。確かに私もお気に入りのぬいぐるみがあって、そのタヌキとパンダだけはしっかり記憶に焼き付いている。けれど、それ以外のおもちゃなんて「そういえばそんなのがあったような?」という程度。

それより強く覚えているのは、例えば無口な父とのこと。その父が酔っぱらって機嫌が良くなると、決まって小さな私を膝に乗せ、ひげをジョリジョリするのだった。その痛さと嬉しさが交錯した、まか不思議な気持ち。

例えば笑い上戸の母のこと。いつもは明るい母が、うそをついた私を涙をためて叱りとばした。「ウソつくのは、母さん大っ嫌いだよ」そう言って泣いていた、あの情景。

そんな、人との関わりが、何十年の時を経た今でも目をつぶると鮮明によみがえってくるんだ。

子どもがほんとに望んでいるのは、もしかしたら「もの」ではない。お母さんとゆったり過ごすひとときであったり、お父さんと入るお風呂であったりするのかもしれない。そんな、大人の側からしたら「なんでもない」ことを、子どもは求めているんじゃないのかな。

そんなあれこれを思っているうちに、バスはアヤメが咲き乱れる庭園に到着。手と手を繋いだ親子が次々にバスから降り立ってくる。

におうような紫の風の中、「ふー」、草笛の音が聞こえた。見ると器用に草の芯を抜いた母親が、子どもの耳元で静かにに息を吹き込んでいる。小さな手がそれを受け取り、力一杯吹いてみる。

「・・・ふー」

かすかな音。それと共に、子どもに、そして母親に穏やかな笑みが広がった。

今この時間が、濃密なこの関わりが、きっとこの子の記憶に残るだろう。そんな気がした。

もうすぐ夏休みがやってくる。

「なんにもない」「なんでもない」から生まれる豊かさ。

そんな贅沢な時を、たくさんたくさん。子どもと一緒に共有しよう。